Music Diary
[ 2009.12.21 ]
ディオンヌ・ワーウィックの母性
2009年12月14日、ディオンヌ・ワーウィックが初めて日本のジャズ・クラブに立ちました。
正確にいえば、彼女にとって第3回目の1974年来日時は、クラブ月世界などや京都ベラミといったクラブに出演していますが、それはジャズのクラブではありません。
迎えるブルーノート東京も万全を期し、一夜1回公演。ドレス・コードをもうけ(といっても、男性ジャケット着用というゆるいものですが)、場の華やぎを演出します。これが功を奏し、おしゃれに着飾る40代のカップルを中心に、補助スツールもでる満席となりました。
わたしは、ディオンヌの歌のみずみずしさに、まず打たれました。
1940年ニュージャージー州生まれですから、'60年代黄金期の高音域の張りはありませんが、それでも彼女の歌がもつポップス性、エレガンスは失われず、時を超えた歌の力で魅了してきたのです。
「ウォーク・オン・バイ」でスタートし、バート・バカラック=ハル・デヴィッドの名コンビが生んだヒット曲を歌いつぐディオンヌ。
軽やかさが信条の楽曲群ですが、人生の厚みをいかした中低音域が深みを伝えてきます。
今はアメリカとブラジルに半々で暮らしている現況を話し、歌ったアントニオ・カルロス・ジョビン・メドレーでは、ステップも踏み、今の彼女自身の幸せを体で表現しているようでした。
女性らしさ、ひいては母性を感じたのは、息子でファースト・アクトもつとめたデヴィッド・エリオットとのデュエットです。
彼女は息子にまま華をもたせて、ゴスペルの影響が濃い彼の歌唱を横でうれしそうに聴いていました。
20年ほど前、ディオンヌにインタヴューしたときのことです。
順風満帆の歌手人生をわたしが指摘すると、'70年代の低迷期に味わった挫折と苦悩を話してくれました。
「でも、息子のためにも歌わなくては。そう自分を鼓舞して歌ってきたのです」
ハートフォード音楽大学に於いて主専攻で音楽教育、副専攻でピアノを専攻した彼女。60年代に入ると音楽学校に通いながら母がマネージャーをしていたコーラス・グルー プでピアノの伴奏をしたり、妹のディー・ディー、叔母のシシー・ヒューストン(ホイットニーの母親)と組みニューヨークのレコーディング・セッションでバック・シンガーとして活動していました。
ドリフターズのレコーディングでデモ歌手をしているときにバカラックと出会い、「ウォーク・オン・バイ」('64年)、「小さな願い」('67年)と次々にヒットを飛ばしていくのです。スター街道まっしぐら、です。
しかし70年代初頭にバカラックとデヴィッドが仲違いしてからは三者での訴訟合戦に発展し、彼女の音楽活動が低迷した時期があったのです。
その時期に心の支えとなった息子エリオットが成長し、刑事という職を経て現在シンガー、俳優として活動しているのです。
母親と娘の関係性には葛藤が介在するのがフツーですが、息子とはまた別。息子と歌える希有な喜びを、ディオンヌも隠そうとしませんでした。
わたしも、独り言。
そうよね、亡くなった父君とデュエットするより、手を取ってくれるハンサムな息子とデュエットする方が、きっと幸せにちがいない。
母子デュエットで歌った、バカラック制作('86年)の「愛のハーモニー」のすばらしさ。見事なハーモニーで、時を経ることで得られる人生の果実を手渡してくれたのです。
人生って、いろいろあって、でもだからこそ、素晴らしいんだな。そんなことを思ってブルーノート東京を後にできた、幸せな夜でした。







